2012年04月25日
「みなさん、ほんとうに、ありがとう」~致知~
『いま、感性は力』(致知出版社)より
行徳哲男(日本BE研究所)
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「死との対決」によって「生」を鮮烈にして逝った
一人の若者がいました。
いまから9年前の1月21日、富山県の砺波市という町で、
ガンで亡くなった井村和清さんです。
彼は医師でした。
右膝に巣くった悪性腫瘍の転移を防ぐため、右脚を切断しましたが、
その甲斐もなく、腫瘍は両肺に転移してしまいます。
そして、昭和54年1月、亡くなりました。
享年31歳でした。
( 中 略 )
その彼が遺書を残しているんです。
その遺書は「ありがとう、みなさん」と題されていますが、
私はこれをバイブルにしていつも持ち歩いています。
迷ったり、悩んだりしたときは、これを読み上げることにしているんです。
彼は2人の子供に
「心の優しい、思いやりのある子に育ってほしい」
と書き、
「思いやりのある子とは、まわりの人が悲しんでいれば共に悲しみ、
よろこんでいれば、その人のために一緒によろこべる人のことだ。
思いやりのある子は、まわりの人を幸せにする。
まわりの人を幸せにする人は、まわりの人々によって、
もっともっと幸せにされる、世界で一番幸せな人だ。
だから、心の優しい、思いやりのある子に育ってほしい。
それが私の祈りだ……。
私はいま、熱がある。咳きこんで苦しい。
私はあと、いくらもそばにいてあげることができない。
だから、お前たちが倒れても手を貸してあげることができない。
お前たちは倒れても自分の力で立ち上がるんだ。
お前たちがいつまでも、いつまでも、幸せでありますように。
雪の降る夜に 父より」
そしてまた彼は、こんな遺書も書いています。
「夜明けごろになると妻が泣くようになったのは、10月の終わりでした。
なぜ泣くのか、と尋ねますと、妻は『怖い夢を見た』と言うのです。
どんな夢かと聞きますと、私がいなくなった夢を見た、と言うのです。
他の者は皆いるのに、私の姿だけがどこにもない。
もう二度と逢えないのだと思い、泣いていたと言うのでした。
また、こんな夢もありました。
私が酸素吸入を受けている。
その顔は蒼白で、痩せてカマキリのような顔をしていた。
『何か隠しごとをしているのならそれを言って。一人で死なないで』
そう言って泣く妻に、
もうこれ以上は隠し続けることはできないと観念し、
私は自分の病気のことを告げました」
「私が右足を切断したのは、昭和52年の11月でした。
大腿より切断しなければ肉腫は確実に全身に及び、
生命にかかわってくる。
私は切断を決心しました」
しかし、肉腫は容赦なく彼をむしばんでいき、さらに増大し続けます。
これからどうなるかわからない。
いまやっている治療法が効果をみせることもなく、
大量の喀血、肺炎、あるいは悪液質に陥り、
二度と職場を廻ることができなくなるかもわからない。
「ただ、ようやくパパと言えるようになった娘と、
まだお腹にいるふたり目の子供のことを思うとき、
胸が砕けそうになります。
這ってでももう一度と思うのです。
しかし、これは私の力では、どうすることもできない。
肺への転移を知った時に覚悟はしていたものの、
私の背中は一瞬凍りました。
その転移巣はひとつやふたつではないのです。
レントゲン室を出るとき、私は決心していました。
歩けるところまで歩こう。
その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、
私は不思議な光景を見ていました。
世の中がとても明るいのです。
スーパーへ来る買い物客が輝いてみえる。
走りまわる子供たちが輝いてみえる。
犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が輝いてみえるのです。
アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほど尊くみえました」
「郷里へ戻ると父が毎朝、近くの神社へ
私のために参拝してくれていることを知りました。
友人のひとりは、山深い所にある泉の水を汲み、
長い道程を担いできてくれました。
これは霊泉の水で、どんな病気にでも効くと言われている。
俺はおまえに何もしてやれなくて悲しいので、
おまえは笑うかもしれないが、これを担いできた。
彼はそう言って、一斗以上もありそうな量の水を置いてゆきました。
また、私が咳きこみ、苦しそうにしていると、
何も分からぬ娘までが、私の背中をさすりに来てくれるのです。
みんなが私の荷物を担ぎあげてくれている。
ありがたいことだと感謝せずにはいられません。
皆さん、どうもありがとう。
這ってでももう一度戻って、残してきた仕事をしたいと
願う気持ちは強いのですが、
咳きこむたびに咽喉をふるわせて出てくる血液を見ていますと、
もはやこれまでか、との心境になります」
実はこの遺書には「あとがき」がふたつあるのです。
最後の「あとがき」は彼が死んだあとに彼の奥さんが綴ったものです。
だから、彼の「あとがき」は先に来たんです。
彼は
「原稿をまだ半分も書き終わっていないのに、
私は『あとがき』を書き始めています。それには訳があります」
といって、日一日と悪化する病気に、
「もう有余はできない。
ここまでくれば、いつ机に向かうことができなくなるかもしれない。
頭と尾があれば、胴は少々短くても魚は魚であり、
尾がなければ、それは魚でない。
だからとにかく『あとがき』という尾を書くことにしたんです」
彼はその「あとがき」の中にこう書いています。
「頼みがあります。
もし私が死にましたら、残るふたりの子供たちを
どうぞよろしくお願い致します。
私が自分の命の限界を知ったとき、
私にはまだ飛鳥ひとりしか子供はありませんでした。
そのとき、私はなんとしても、もうひとり子供が欲しいと思ったのです。
それは希望というよりは、むしろ祈りのようなものでした。
( 中 略 )
祈りは通じ、ふたり目の子供が妻の胎内に宿ったのです。
妻はこれはあなたの執念の子ね、と言って笑いましたが、
私はどうしても、妻と飛鳥を、
母ひとり子ひとりにしたくなかったのです。
三人が力を合わせれば、たとえ私がいなくても、生きぬいていける。
妻がもし艱難に出遭うことがあっても、
子供たちふたりが心を合わせれば、
細い体の妻をきっと助けてくれる。
そう信じています」
「そしてもうひとつお願いがあります。
それは、私の死で誰よりも苦しみ、誰よりも悲しみ、
誰よりも泣いている父と母をどうか慰めてやってください。
私にはもったいない、仏さまのような父と母でした。
父は自分のすべてを捨てて私を救おうとした。
母は実母でもないのに、
血の通う肉親以上の深い愛で私を抱き締めてくれた。
いまはこの優しい父と母になんの孝行もできない。
それどころか、親にわが子の葬式を挙げさせる、
こんな残酷なことはない。
悲しくてたまりません。
いまから老いていく父と母をどうか慰めてやってください。
人の魂が永劫であることを信じたい。
人の魂が永劫であるなら、いつの日にか、
再びこの父と母の腕に抱かれる日だってくる。
人に生まれ変わりがあり、私にその機会が与えられるなら、
再び三十歳の短い命であってもいいから、
もう一度、この父と母のもとに生まれてきたい」
「ありがとう、みなさん。
世の中で死ぬまえにこれだけ言いたいことを言い、
それを聞いてもらえる人は滅多にいません。
その点、私は幸せです。
人の心はいいものですね。
思いやりと思いやり。
それが重なりあう波間に、私は幸福に漂い、
眠りにつこうとしています。
幸せです。
ありがとう、みなさん、
ほんとうに、ありがとう」
亡くなられた井村和清さんは、
とても共感できる詩を遺されております。
次回のブログにはその詩も紹介させていただきます。
Posted by 木鶏 at 12:24│Comments(0)
│致知(感動話)