2012年05月22日
「喫茶去(お茶でも召し上がれ)」~致知~
『致知』2009年5月号 巻頭の言葉より
松原泰道(「南無の会」元会長)
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101歳の天寿を全うするまで
仏の道を説き続けた禅の名僧、
松原泰道氏のお話をご紹介します。
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中国は唐の時代、禅僧・趙州(じょうしゅう)和尚のもとに、
一人の修行僧が教えを請いにやって来ました。趙州和尚が、
「あなたはここへ初めて来たのか?」
と問うと、僧は答えて、
「はい、初めてまいりました」
すると趙州和尚は言いました。
「喫茶去」(きっさこ/お茶でも召し上がれ)
趙州和尚は、別の訪問僧にも同じことを尋ねました。
その僧は、
「いえ、以前にも伺ったことがあります」
と答えましたが、趙州和尚は同様に勧めます。
「喫茶去」
このやり取りを見て、不思議に思った寺の住職が
趙州和尚に尋ねます。
「老師は、初めて来た人にも、以前来たことがある人にも、
同じに『喫茶去』と言われました。これはどういうわけですか」
すると趙州和尚はまたしても、
「喫茶去」
と答えたのでした。
禅の思想は極めて象徴的で、言句(文字や言葉)を
表面的に捉えると解釈を誤ります。
喫茶去というからお茶にとらわれてしまいますが、
趙州和尚は、ここへ初めて来たのか、
以前ここへ来たことがあるのかと、
未来でも過去でもない、
「いま、ここ」を問題にしているのです。
「いま、ここでお茶を召し上がれ」と。
お茶を飲むということは、日常のありふれた行為です。
しかしその日常の行為が、実は禅そのものなのです。
お茶を飲むことだけではありません。
ご飯を食べること、衣服を着ること、
そうした日常のすべてがそのまま禅なのです。
多忙な現代人は、食事もお茶も、
他のことをしながらいただいて
「ながら族」になりがちです。
しかし、何事も「ながら族」ではいけません。
お茶を飲む時はお茶を飲むことだけに徹する。
ご飯を食べる時も、衣服を着る時も、
ただそのこと一つに徹してすることによって、
人生の受け止め方も違ってくる。
喫茶去とは、そのことを説いているのです。
自分は回り道をしているとか、
自分の本当の仕事は別にあるとか、
何事も一時の腰掛けのつもりで手を抜いてやっていると、
必ず悔いが残ります。
しかし、どんな仕事であれ、
その時に全力を尽くしてやったことは、
後で必ずプラスになって返ってくるものです。
全力を尽くして取り組んでいる限り人生に無駄はない。
これは、私の長い人生から得た持論です。
Posted by 木鶏 at 21:00│Comments(0)
│致知(生き方・人生観)