2013年01月22日
「落花の風情」
山村洋子(研修プロジェクト「Tea Time Network」主宰)
致知web限定随筆「筆のしずく」より
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「今年も椿が咲きましたね」
元気だった頃の母は、初春を迎えるたびに、
そう呟やいたものでした。
ある時、私が
「椿の花は、ポロッと落ちるから好きじゃない…」と言うと、
「咲いた花は必らず散るものよ。たまには散りゆく風情も
味わってみなさい」
と、言いながら、こんな話をしてくれました。
だいぶ前のことなので、間違っているかもしれませんが…。
千利休の孫に宗旦という人がいました。
ある日、その宗旦と親交のあった京都正安寺の和尚さまが、
寺の庭に咲いた椿の花の一枝を宗旦に届けるために、
小僧さんに持たせたのです。
椿の花は落ち易いことを知っていた小僧さんは、
気をつけていたのですが、案の定、途中で落としてしまいました。
小僧さんは、ひどく落胆し、落ちた椿の花を手のひらに乗せて、
自分の粗相を宗旦に詫びるのですが、
宗旦はただ黙って笑みを浮かべながら、
この小僧さんを自分の茶室に招き入れたのでした。
宗旦は、茶室に置いてあった花入れを片づけて、
利休から譲り受けた遺品の竹筒を取り出し、
小僧さんが手にしていた花のない椿の枝をそこへ投げ入れました。
そして、その枝の真下に落ちた花をそっと置いて、薄茶を一服点じ、
静かに小僧さんの労をねぎらったというのです。
相手を責めず、おおらかな心で落ちた花の風情を味わいながら、
二人で茶を服したという話でした。
役割りを終えた花にも値打ちを見出して、その一瞬を楽しむ。
これこそが“人生のお点前”であることを、
母は私に教えたかったのでしょうか。
落ちたものは落ちたもので、貧乏は貧乏なままで、
ないものはないままで…と、
常に“あるがままをよし”とした素朴な母でした。
その母ももうすぐ89才を迎え、今、冬が来たことも、
好きな椿が咲いたことも(痴呆で)わからず、
軒下にかかったままの風鈴が風に揺れるのを、
ぼんやり眺めるだけの毎日ですが、
これもまた、人生を味わい尽くしたあとに
誰もが迎える“老いの風情”と
言えるかもしれません。
だとすれば、この風情を静かに受け入れ、
風に揺らめく季節はずれの風鈴を
母と一緒に眺めながら、長閑なひとときを
心ゆくまで味わいたいと思います。
2013. 新春. 母との静かな暮らしに、心を癒されて…
Posted by 木鶏 at 21:00│Comments(0)
│致知(生き方・人生観)
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