2013年05月22日
【私が考えるプロ】
竹内洋岳(プロ登山家/日本人初の8000メートル峰14座登頂)
月刊誌『致知』2012年6月号
「登り続けることで次の山が見えてくる」より
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8000メートルを超える
高峰が世界には14座ある。
昨年5月、日本人として初めて
その全てに登頂する快挙を成し遂げたのが
竹内洋岳氏である。
過酷な自然とどう向き合ってきたのか。
死の危険に身をさらしながらも、
なぜ山へ向かい続けるのか……。
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2007年、ガッシャブルムⅡ
(8035メートル)への登頂を
試みている時でした。
目の前の雪が少し落ちてきたと思ったら、
足下が崩れてゴロゴロと
転がり落ちてしまいました。
雪山では時々あることなので、
途中で通過した平らなところまで落ちれば
止まるだろうと思っていました。
ところが、止まるはずのところをすでに
通り過ぎていることに気づいて初めて、
自分は雪崩に遭ったこと、
もう助からないことが分かったのです。
その瞬間、怒りが込み上げてきました。
自分の想像が及ばず雪崩に巻き込まれて
しまったことに無性に腹が立って、
転がり落ちながら意識が途絶えるまで
怒り続けていたことを覚えています。
私はその雪崩で約300メートル、
東京タワーと同じくらいの高さを落ち、
雪の中に深く埋まってしまいました。
一緒に登っていた2人は命を落としましたが、
私は1日遅れて登ってきた別の登山チームによって
奇跡的に発見され、救出されたのでした。
背骨の1つが潰れ、
肋骨は5、6本折れ、肺は片方潰れ、
凄まじい痛みで私は錯乱状態に陥っていました。
ベースキャンプで私を診てくれた
ドイツ人のドクターは
「ヒロ、残念だがお前はもう助からないから、
家族にメッセージを残しておけ」
と言われていました。
そんな私を、そこに居合わせた方々が、
大使館や外務省などを通じ、
パキスタン政府にまで働きかけ、
禁止エリアまでヘリを手配してくれ、
後を引き継いだ日本大使館の方々のご尽力で
日本まで送り届けられたのでした。
あの時、私に関わってくださった方が
1人でも欠けていたとしたら
私は助かっていませんでした。
私はあの時一度死んでいた。
その私に、あの場に居合わせた皆さんが
命を少しずつ分けてくださり、
新しい命を授かったのだと思うのです。
山で与えられた命は、
山で使わなければいけない。
その一途な思いで私は1年後、
まだ背骨にシャフトの入った状態で、
雪崩に遭ったガッシャブルムⅡの登頂を果たし、
続けてブロードピーク(8051メートル)
の頂にも立ちました。
助けていただいた命をまた山で使うことが、
一番の感謝の表明であると私は考えます。
私にできることは、山に登り続けることしかない。
あの事故によって私の覚悟は一層強固になり、
十四座の完登を果たすことができたのでした。
決して1人で登ったわけではありません。
たくさんの方々に支えられて私は登ってきたのです。
14座という目標は、
これまで登ってきた1つひとつの階段と
それほど違いがあるわけではありません。
そこが登り切った一番上ではなく、
先にまだまだ階段が続いているのです。
私の目標は、これからも
その階段を上り続けることです。
続けることによって、
私の登山を誰かが引き継いでくれ、
登山がスポーツとして、文化として
日本にこれまで以上に根付いていく。
登り続けることによって、
自分の一隅を少しでも明るく照らしていくことが、
プロ登山家としての私の役割だと考えています。
Posted by 木鶏 at 21:00│Comments(0)
│致知(仕事・プロ観)
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