2013年09月17日
【感性を研ぎ澄ませ 患者の声に謙虚に耳を傾ける】(前編)
押川真喜子(ハーフ・センチュリー・モア ケア部門統括責任者/
聖路加国際病院訪問看護ステーション元所長)
『致知』2013年9月号 「致知随想」より
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一九九二年、三十二歳で
聖路加国際病院訪問看護科を立ち上げ、
その後ステーションに移行してから二十一年。
その間に私は約千人もの患者と出逢ってきました。
訪問看護では、年齢や疾患を問わず、
在宅療養患者のもとを訪れ、様々な処置を行います。
介護職でも対応できる入浴の介助から、
点滴等の医療処置、入院の判断をはじめ、
緩和ケアや終末期の看取りへの対応。
その裁量の大きさゆえ、訪問看護師の責任は重大です。
私は看護師生活の大半を訪問看護に捧げてきましたが、
大学卒業直後は「死を目の当たりにしたくない」
という理由から、保健師として保健所に就職しました。
そんな私の転機となったのは、
筋萎縮性側索硬化症(ALS)の男性との出逢いでした。
ALSは筋肉が萎縮し、全身麻痺になる難病です。
人工呼吸器が必要となるため長期入院を強いられ、
奥様は幼い子供をお義母様に任せて
献身的に看護されていました。
本人はもちろん、家族の負担は
計り知れないものだったと思います。
しかしそのような状況でも、
明るく気丈に振る舞う奥様に心打たれ、
病室を訪ねるうちに私は思わず口走っていました。
「何かあったらお手伝いしますから、
なんでも言ってくださいね」
とは言え、病状から退院は無理だろう、
と内心思っていた私に奥様から電話が入ったのは、
三か月後のことでした。
「病院が廃業することになったの! 押川さん助けて!」
自分から申し出た手前、断ることもできません。
奮起した私は帰宅の願いを叶えるべく、
道を模索し始めたのでした。
しかし、当時は訪問看護という言葉すらなかった時代。
ALS患者の在宅看護を主張した私は、
保健所の中で完全に孤立してしまいました。
家族が分断され、長年辛い思いをしてきた方たちの
願いをなんとか叶えたい。
その一心で関係者の説得や機器の手配に奔走した結果、
保健所の所長が帰宅を許可してくださったのです。
「お父さんおかえり!」
当日、涙を流しながら子供たちに迎えられる彼を見て、
私は涙が止まりませんでした。
これが私の訪問看護の原点となったのです。
その後聖路加国際病院に移り、
院長の日野原重明先生に訪問看護の必要性を直訴。
先生はすぐ志に共感してくださいました。
しかし医師たちは看護師が医療処置をすることに
不安感を抱いており、処置の実演など、
技量を試されることも少なくありませんでした。
訪問看護の草創期は、血圧測定や簡単な問診のみを行う
「家庭訪問」が主流でした。
しかし、徐々にではありましたが、
私たちを必要としてくださる方は増え、
ケアの範囲も広がっていきました。
(後編)につづく
Posted by 木鶏 at 21:00│Comments(0)
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