2015年06月12日
【明治憲法誕生秘話】
『日本の偉人100人』より
(致知出版社刊)
編著:株式会社寺子屋モデル
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「明治憲法誕生秘話~近代国家建設の父・
伊藤博文の苦心から学ぶ日本人の気概~」
本日は、いまから約130年前、
日本が西洋列強の厳しい圧力に
屈することなく近代国家として力強く
歩みだしていく原点ともなった
明治憲法の誕生秘話、
そしてその生みの親ともいうべき
初代内閣総理大臣・伊藤博文の
感動エピソードを紹介させて
いただきます!!
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憲法草案は、総理大臣伊藤博文を
中心に、若手の井上毅、伊東巳代治、
金子堅太郎の3人が加わって
作成されました。
時には神奈川県横須賀沖の
夏島にカンヅメとなって没頭しました。
4人がそろうと議論を始め、
昼食も食べずに晩まで続けることもあり、
夜もおおむね12時頃まで議論を
戦わせました。
博文の案が激しい攻撃を受ける
こともあり、そんなとき博文は、
「伊藤の三百代言(いい加減な
ことをいうやつ)め!」、
「井上、おまえは腐儒だ!」
と大きな声で叱ることも
たびたびありました。
ところが翌朝になると、
「昨日の問題は、まあ、君たちの
言い分を認めよう」
とあっさり折れたそうです。
飾り気のない無邪気な博文の
人柄がうかがえるとともに、
4人が身分の違いを超えて、
より良い憲法を目指して
激しく議論に打ち込んでいた様子が
伝わってきます。
草案作成で最も苦心したのは、
憲法に日本の歴史や文化伝統を
どのように取り入れるか
ということでした。
欧米の憲法に基づく議会政治は、
それぞれの国の伝統や歴史が
背景にあり、キリスト教がそれを
支える土台となっていることを、
博文はヨーロッパでの憲法調査を
通じて学んでいました。
そこで博文は、天皇が国民の
精神的支柱と仰がれてきた
わが国の伝統を踏まえて、
皇室を憲法の土台に
すえて草案を作成することに
したのです。
練りに練って作成された憲法草案は、
明治天皇のご臨席のもとで開かれた
枢密院で議論され、
ついに明治22年2月11日、
大日本帝国憲法として公布されます。
翌23年には衆議院議員選挙が
行われ、第一回帝国議会が開かれました。
欧米以外の国では無理だと思われていた
立憲政治(憲法に基づく議会政治)が
アジアで初めてスタートしたのです。
第二次世界大戦後、アジアや
アフリカ諸国が次々に独立して
民主的憲法を持ちましたが、
多くの国がうまく運用できず、
独裁国家に逆戻りしたことを
考えれば、明治憲法と議会が一度も
停止されることなく、
立憲政治が続いたことは
その土台を築いたのが
伊藤博文だったのです。
(伊藤の死後)松下村塾で
ともに学んだ友であり、
明治の政界において良きライバル
であった山県有朋は、
伊藤の死を悼んで次のような
歌を詠んでいます。
かたりあひて 尽くしし人は
先立ちぬ 今より後の
世をいかにせむ
(現代語訳:一緒に真剣に語り合い、
国のために尽くしてきた友は
先だってしまった。
今から後の日本の世の中を
一体どうしたらよいのだろうか)
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【亡くなる7年ほど前、伊藤博文が
大磯でつくった漢詩】
酔中(すいちゅう)天地闊(ひろ)し
世事しばらく相忘る
滄浪水(そうろうすい)を問わず
功名は夢一場
(現代語:酒に酔えば、天地は広々と
感じられて、世の中の煩わしいことを
しばらく忘れる。
行手が青くきれいな水かどうかは
問うまい。現世の功名は
夢の一場面に過ぎないのだから)
Posted by 木鶏 at 21:00│Comments(0)
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