2012年07月18日
【自由と責任】~独語~
何年か前ですが、
テレビのチャンネルをコロコロ変えていたところ、
たまたま著名人の子供時代を描く『わたしが子供だったころ』
というNHKの番組で、リモコンを押す指が止まりました。
その回は建築家 安藤忠雄氏の現在と子供時代を織り交ぜて
紹介しておりました。
その子供時代の再現ドラマの中で、安藤氏を含む三人の子供が
大きな川に釣りに来ていた。
安藤氏ともう一人の子は堰の真ん中の方へ行こうとするが、
残りの一人が「そこは危ないから行っては駄目と言われてる」と
二人を止めようする。
しかし、二人は聞かずに「自由にするんだ」と言って、進んで行く。
安藤氏が辿り着いて、付いて来ていたもう一人の友達を振り返ったが、
姿が見えない。足を滑らして、流されたのだ。
そして、家族の泣いているシーンが出て、亡くなったことを知らされる。
その夜、寝ている時、安藤氏は隣で寝ている祖母からこう言われた。
「自由の裏側には責任がある」と。
私個人としても、それを聞いた時とても共感したのを覚えております。
人は日々、何らかの選択をしているのです。
それに対する結果が生じた時、その結果に対して責任を持つのは
当たり前のことでしょう。
気に食わない結果だからと言って逃げたり、周りに責任を転嫁したり
するなど持っての外です。
特に人の忠告・警告を聞かず自由勝手にした行為は、
全て自分に責任があると覚悟しなければなりません。
残念ですが、再現ドラマの中での子供は自由な選択と引き換えに命を
捨てたのです。感情の無い厳粛な「法則」にとって、相手が子供だからと
容赦など微塵も無いのです。
この場合、子供の選択は親の躾によって導くしかありません。
大人であれば、本来はその選択に自らの自覚と覚悟が必要なのです。
しかし、人間とは基本盲目な生き物なので、良くも悪くも実際に結果を
経験しないと、自らの実にしないのが現実です。
テレビなどでドキュメンタリーや再現映像の中で、
「失って初めて気付いた」という言葉を度々耳にします。
そして、テレビに出るくらいなので、そうした人たちは
大いに成長されております。
これはただの感動話ではなく、ある意味、全視聴者に対する
貴重なメッセージが発信されていると言っていいのですが、
なかなか受信できないものです。私自身も含めてですが・・・。
だから思うのです。
良くも悪くも自分の選んだ道です。結果くらいは大いに受取れば良いと。
どんな大きなものを失っても、取り返しのつかない状態であったとしても、
まだ、その時に気付き学ぶ時間が残されている境遇であるならば、
喜ぶべきではないでしょうか。
もし、学び得て余生に反映することができたなら、失ったものも無駄では
なく成長の為の糧となり得るのですから。
私は死ぬ間際まで、学び成長できるものだと思っております。
自由という響きはとても魅力があり、希求すべきものではあります。
しかしその反面、残酷なまでの責任が伴うという一面があることを、
結して忘れてはならないのです。
あらゆる物事には対極があり、同時に表裏一体です。
自由(完全なものは無い)に生きるとは、正に相応の自己責任で生きると
言うことと表裏一体なのです。
Posted by 木鶏 at 21:00│Comments(0)
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