2012年09月12日
【食糧(料)廃棄の現実】
6~7年くらい前に「ガイアの夜明け」という番組で
日本の食料廃棄の現実を知って、思わず当時書いていた
別のブログに心情を吐露したが、外信コラムで
米国もまた同様の問題を抱えていると今月報告されていた。
米国での食料廃棄は年間1650億ドル(約3兆1千億円)に上り、
1970年代の1.5倍らしい。自宅での食事や外食に加え、
流通過程も合わせて食べ物の約4割が廃棄されているということ。
恐ろしい数字である。
世界では飢えた子供が数秒単位で次々と亡くなっている。
この現実を人類として、どう捉えるべきか?
無論、現在の日本もまた同類である。
NPOネットワーク「地球村」の調べによると
日本の食品の約7割は、世界から輸入したもので、
年間 5800万トンの食糧を輸入しながら、
その3分の1になる1940万トンも捨てているとのこと。
廃棄量は世界の食料援助総量740万トンをはるかに上回り、
3000万人分(途上国の5000万人分)の年間食料に匹敵するらしい。
そして、日本の食品廃棄の実に半分以上にあたる1000万トンが
家庭から捨てられている。外食・流通を含まない
この家庭から出る残飯だけの総額で、日本全体で年間11兆円。
これは日本の農水産業の生産額とほぼ同額であり、
さらにその処理費用で、2兆円が使われている。
無駄の極致、馬鹿馬鹿しいこと限り無しである。
日本は食糧の7割以上を輸入しながら、世界一の残飯大国だという。
うちの母親も時折、食べ忘れて賞味期限をはるかに越えさせたり、
腐らせたりで捨てているのを見て、「捨てるなら買うな」と
つい語気強く叱ってしまう。
そういう人たちは、実際に日々食べるに困る経験をしてみればいい。
過去ブログの【生活保護について思うこと】にも書いたが、
日本でも「おにぎり食べたい」と書き残して餓死した人がいる。
普通に食べられることのありがたさを改めて認識しなければならない。
得ることによって失うものが確かにある。
物事はあまねく表裏一体であり、
物質的な豊かさは、精神的な貧しさを招く側面がある。
京セラの稲森さんが失敗だけでなく「成功さえも試練」と
喝破されたように目に見える豊かさの享受にによって、
足るを知ることを忘れ、強欲の赴くままに進んだ
未来に何があるのか?
答えは明らかだろう。
自ら軌道修正できないのであれば、その歪がもたらす
ツケを強制的に支払わされ、価値観の変革を迫られる。
それは歴史を紐解けば見事に符合しているから、恐ろしい。
ある意味、そうやって人類は成長してきているのが現実。
だが、いつまでそうした機会が与えられることやら・・・。
「米粒ひとつにも神様がいて、農家の思いが込められている」
という精神が、かつては日本中にあったでしょう。
「もったいない」と言う言葉にもその精神が見て取れます。
ケニア出身の環境保護活動家であるワンガリ・マータイは、
来日時に「もったいない」という言葉に感銘を受けた後、
この意思と概念を世界中に広めるため他の言語で該当するような
言葉を探したが、「もったいない」のように、自然や物に対する敬意、
愛などの意思(リスペクト)が込められているような言葉が
他に見つからなかったと言っています。
2005年の国連女性地位委員会で出席者全員に「もったいない」と
唱和させたりするなど、世界へこの語を広めようとしました。
その「もったいない」という高尚な精神、その源流は神道にまで到ります。
全ては与えられているのだという視点を持ち、
その意味を大切にし、一人一人が日常に反映(繁栄)させて
行くことができれば、と切望します。
Posted by 木鶏 at 21:00│Comments(0)
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